2009/10/22

小沢信夫『東京骨灰紀行』(筑摩書房)

小沢信夫『東京骨灰紀行』(筑摩書房)

はかない遊女たちは、では、なぜ浄閑寺だったのか。江戸切絵図を広げます。「今戸箕輪・浅草絵図」嘉永六年刊の尾張屋版の、ちかごろの印刷物を。
絵図のまんなかに、新吉原が四角く灰色に描かれていて、まわりは緑色の田圃。その外まわりを赤い枠取りのお寺がかこんで、浅草から上野一帯まで圧倒的に寺町だったことがわかるが、この絵図は、まずは新吉原へのガイドマップなのでしょう。第一のコースは隅田川を猪牙舟できて山谷堀へ入り、土手にあがって、衣紋坂をおりて遊郭(なか)へ。この日本堤は、主には荒川(隅田川)の氾濫から江戸を守るのがねらいだった。土手の北側は江戸の外だ。
犬猫同然の死骸は、江戸の外へ捨てるにかぎる。界隈に腐るほど寺があろうとも。そこで土手へかつぎだし、隅田川方面はメーンストリートにつき、西へゆく。すると対岸にまっさきにみつかる寺が浄閑寺。しめしめとかつぎこんだ様子が、切絵図をみるほどに目にうかぶ、ような気がします。(p.56)

昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲にも、日本堤、三ノ輪のこの界隈から北は焼けのこった。寺の前の「にんべんや履物店」の息子の荒木経惟は当時満4歳、のち高名の写真家が、こう証言しています。「空襲の時には浄閑寺の墓地に避難した。そこから周り中が燃えている赤い空を見たから、今もオレは赤い色が好きなんだよ」
にんべんやも、名物下駄の看板とともにぶじでした。その看板はもうないけれど、おかげでここらの横丁や表通りにも、古い東京の面影が、かけらほどにはのこっている。新吉原は、大江戸このかた全焼十余度の火宅そのものなのに、ひきかえて浄閑寺一帯が、どうして奇跡的にまぬがれつづけたのか。
石室正面には、いつ来てもお花があがっている。その右の壁面に、色紙風に黒石をはめこんで一句。「生れては苦界 死しては浄閑寺  花酔」(p.57)

彰義隊は、新撰組ほぢには人気がないのはなぜだろう。上野戦争といえば、パノラマ館の興行にさえなって、おりおり人気が盛りあがったらしいのに。やがて日清・日露の戦争を経れば、パノラマのネタもどっちそちらへ。それに彰義隊の残党からは各界に逸材をだした。幇間の大物〔松廼屋露八のこと〕のみか、大日本印刷の祖の佐久間貞一や、日本女子大学の祖の一人の戸川残花や。つまりイメージが単純でない。まして東京大空襲を経てからは、上野界隈が少し焼けたぐらいの戦なんか、片腹痛くなったんでしょうなぁ。わずか半日で死屍累々の、官軍側はその場からかたづけ招魂社(靖国神社)へまつられたが、彰義隊二百数十人は泥土にうち捨てられたままだった。という事実の残像としてこの一角はある。無言の碑たちがあっちむきこっちむき、樹陰に無愛想にたたずんでいる。(p.62)

『東京大空襲──B29から見た3月10日の真実』

高度経済成長期、この町〔築地〕のビル化が競ってすすんだ。いざ地下を掘ると、当たりはずれが生じた。なにごともないところと、ざくざくお骨がでるところと。子院の引っ越しは、つまり位牌の墓石を運んだので、土葬時代の地下は、大地に抱かれて自然に帰しているのであった。ところがビルは地下室を造るからね。造らぬまでも掘り固めるからね。そこが墓所跡ならば大当たり。なにしろ築地で、もともとは海につき、水気に漬かって空気に触れず、保存きわめて良好のお棺もでた。蓋をあけると妙齢の美女が振袖のまま眠っていて、ものに動じぬ仕事師もギャッと叫んで遁走したとか。聞きつけてドッとむらがったとか。多少は尾鰭のついた実話が、この町のどこかでいまも語り継がれているはずです。現代の民話。(p.112)

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