2009/10/03

舌の前衛

10時半起床。今日も喉が痛い。風邪気味。ガールフレンドを見送って、洗濯物を乾燥機にかけて、漢方を服用してから、ブランチ。白米に鮭、さつまいものお味噌汁。食後、『ファストフードが世界を食いつくす』の続きを読んでいるうちにウトウトし、結局13時から16時まで昼寝。まだ眠気はとれない。
起きて図書館へ。帰宅後、ニール・ヤング『Live at Massey Hall 1971』を聴く。最高すぎる!
夕食は、無印良品のグリーン・カレー。たっぷりのにんにく、しょうが、たまねぎを1時間ほど弱火で炒めて下ごしらえし、鶏もも肉、たけのこもじっくり炒め、ハーブ&スパイス多種、少々の鶏ガラスープ、ココナツミルクを加えて煮込む。さらに宮城から届いた無農薬の春菊、しめじを入れて完成。同じく宮城から届いた無農薬の水菜をみょうが、かぼすと一緒に浅く漬けたもの、半熟のゆでたまごを添えて。ガールフレンドが帰宅するまで待って、一緒に食べる。おいしい! 風邪も治りそう。ビール2杯。食後に梨を剝いて、図書館から借りてきた神尾葉子『花より男子』(集英社)を読み始める。

他に、図書館から借りてきた『料理通信』にあった興味深い記事。
〔料理学会なるものが開かれ〕今回の総合テーマは「食の未来」、そして実際のテーマというべきサブタイトルは「科学と料理」である。このテーマがいわば必然のものとして選ばれたのには、去年からスペインの料理界のみならず一般の人々にまでも波及して大きな関心事となっている「コシナ・モレクラール(分子料理)論争」が根底にある。
論争のきっかけは2008年5月。スペインで三ツ星シェフの一人として知られるカタルーニャのサンティ・サンタマリアが自著の出版に際して、「前衛的な高級レストランのシェフの中には、食用に適さない凝固剤や乳化剤を多用している人がいる」と、事実上名指しでフェラン・アドリアと彼に続く前衛料理のシェフたちを批判したのである。
この批判は根拠のないものであること、彼らの使用する添加物とその量に問題はないことがスペイン保健省からもスペイン食品安全保障団体からも発表されたが、様々な報道機関によって「前衛料理vs.伝統料理」と銘打った論争が展開され、定義も定かでないままに「分子料理」という命名が安易に、しかも批判的な響きを伴って使われるという事態を招いた。
(渡辺万里「進化する料理学会『マドリッド・フュージョン』」、『料理通信』2009年4月号、p.58、角川春樹事務所)
ほー、こんな論争がされていたなんて。
まあ「伝統料理」と呼ばれる料理も当時の最先端技術の粋だったと考えれば、エル・ブリ(エル・ブジ)が切り開いた道だってその延長で捉えることは可能だろう。実際、エスプーマはもはやそんなに珍しいものではない。ただ、たしかに気になるのは「添加物とその量」の問題で、これはアガルアガルやアルギン酸、シャンタナなど、とろみをつけたりする添加物のことを指しているのだろうが、こういったほぼ純然たる化学薬品を堂々と料理に使うことに抵抗があるのは、なんか理解できる(ったって、もちろん俺はエル・ブリなんて行ったことないですけどね)。
いずれにせよ、この場合の本質的なテーマは「科学と料理」ではなく「技術と料理」なのではないか。ここで技術とは、伝統的に受け継がれてきた人の技も含まれる。で、この技術こそが科学されなければならないのだ。エスプーマは、ムースを作る技術がいったん科学的に抽象化されることで、別の技術として結晶したのだと言える。とすれば、日本料理の技術──それは食材の扱い方一つとってみても、理にかなっているとよく言われるが──えてして「職人技、経験と勘、知恵」などと表現され、非科学的に伝承されてきた日本料理の技術をこそ、一度科学してみると面白いはずなのだが。
俺は、「舌だけは保守的にできている」などとわざわざ言うやつが嫌いで(本当にいるんだ、これが。最近だと姜尚中がどこかでそんな発言をしていたが、「舌だけ」じゃねーだろって)、舌にこそ前衛が必要とされているとつねづね考えている。なぜそう思うのかは、自分でもよくわからないのだが。この際、科学でなくても、スカムでもいいので(笑)、ぜひ、どなたかチャレンジしてほしいものです。

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