2009/11/10

頭の思いを身体で飲み下す

9時半起床。漢方を飲んで。前夜に服用した鼻炎薬のせいで、異常な眠気が残っている。

出社後、土曜日の仕事の修正。会議2本こなす。

昼食は近所のカレー屋でグリーンカレー。ようやく『アフロディズニー』を読了。おもしろ疑似科学だな、 こりゃ。続いて哀川翔『早起きは「3億」の得』(東邦出版)を読む。

夕方、一瞬だけ会社を抜けて古書会館へ。 退社後、同僚たちとお酒。酒席で森繁の死を知る。しこたま飲んでタクシーで帰宅。


昔の会社の先輩(というには年齢も離れすぎているが)が、今年の1月に亡くなっていたことを知る。

いわゆる「68年世代」に属する人で、出会った頃に20代前半だった俺は、運動やらジャズやら演劇やら、それまで観念的にしか知りえなかった時代のことを「現場の視点」からあらためて教えてもらう僥倖(?)に恵まれたのだった。

ただ、なんというか、70年代のある時点で時間が止まってしまったような「澱み」を彼は持っていて、その後の時代との切り結び方は、それ以前の饒舌さにくらべると不自然なほど消極的なものであるように、俺には感じられた。時代に対して、個人的に拗ねているような感じとでも言おうか。そして、どうやらその「澱み」には1人の女性が関係しているらしいことも、彼の発言の端々から読み取ることができた。


じつは最近、「70年代の乗り越え方」についてぼんやりと考えることが多かったのだが、彼こそがその典型例であったことに、今さらながら気づく。もう少し話を聞きたかった。最後に話したのは、2年ほど前、それも電話であった。


「70年代の乗り越え方」について考えるヒントはいくらでもあろうが、例えば、『美術手帖』2004年8月号にある椹木野衣による赤瀬川原平インタビュー「芸術家・赤瀬川原平は、いかに時代をくぐり抜けたのか。」。俺はこの雑誌をトイレに置いていて、たまに読み返していた。以下、赤瀬川の発言より。

それで77年かな、写真家の中平卓馬が記憶喪失で倒れた。倒れる前の時期、彼とよくつき合っていたんです。彼の記憶が、70年安保に向かう革命願望が盛り上がっているときまでで、ぱったり途切れているんですよ。それで80年に向かうころ、彼がやっと少し回復してきたころかな、とつぜん電話がかかってきた。「ああ赤瀬川さんですか、赤瀬川さんはたしか中央線のあちらのほうに住んでて、お酒が強くて……」とかそんなようなことをいろいろ事務的に聞くばかりでね。これまでのニュアンスがないんですよ。とにかく記憶を確かめてるんです。同じような電話が3回くらいあって、手紙も3回来て。ショックでしたね。どういうことかというと、「80年安保はどうなっているんですか?」って聞くわけですよ。大真面目に。


けっきょく70年代はある種あきらめていく、それまでの頭の思いを身体で飲み下していく、そういう時代だったんだなって。一時、ほんと真面目に「中平卓馬にこたえる会」を、気の知れた3人くらいでつくろうかと思った。やったら面白かったな。尾辻(克彦)の小説(「冷蔵庫」「牡蠣の季節」)のなかで、フィクションとして書きましたけど、でも未消化に終わって、中平の手紙も自分で創作し直そうと思って、けっきょく変えられなかったですね。創作は天然の力にはかなわないですね。

すさまじく重い話である。ここでの引用は中平卓馬に象徴させておくが、もちろん赤瀬川にも、なにか歴史の負荷がかかり、絡めとられていく精神の疲弊があったわけで、ある時代を通り抜けるとは、かくも壮絶な、命がけの作業でさえあるのだ。幸いなことに、中平の場合、記憶のホワイトアウトと引き換えに新たなる凝視を得、赤瀬川の場合、命がけの裏道にトマソンを見つけたわけである。


ちなみに、亡くなった先輩は平岡正明の信奉者であった。まさか、平岡と自分が同じ年に息を引き取るなど、彼も想像だにしなかったろう。

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