2009/08/06

西井一夫『昭和20年 東京地図』(筑摩書房)

自分のためのメモ。
西井一夫=文 平嶋彰彦=写真『昭和20年 東京地図』(筑摩書房)
しかし「騒動はいつも夕方涼しくなつてから始まる。其の頃は毎月夜がよかつた。わたしは暴徒が夕方涼しくなつて月が出てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕があるやうな気がしてならなかつた」と永井荷風が『花火』で書いているところを見ると、帝都東京の米騒動は、すでに悪心の核心となるべき貧民窟の統制均質化がかなり進んでいたことを裏付けている。そこには、「どうしても」という切実さはもう欠如しかかっていて、「どうせ」や「だって」という小市民的な言い訳がすぐ口を突いて出てくる都市的均質性がおおい尽くしはじめていた。(p.51)

空襲による蔵書喪失の危機の切迫と「思想的悩みがなくなったことに気附く」(2月3日)無我状況に入ったことによって、植草甚一の本への渇望はほとんど狂気に近くまで達し、しかも洋書へ集中していく。むろん片端から読んでしまったわけではないが、6月には洋書6冊を読了している。(…)7月27日、「本日より外国映画全部上映禁止となる。番組変更、映配ゆき等いやはや忙しい」(敗戦間際のこのような日まで外国映画を上映していたことがひとつの驚異である)という敗戦前夜の最悪の事態の到来に応答する“外”への渇望をこの人は確実に身に感じていた。“外”の映画が禁止されたその日彼は書二冊求む、と記している。真性の狂気とはまったく逆の、覚醒した狂気を確かに内に持っている人であった。(p.125)

百閒の中にある緊張と呑気、あるいは喪失と爽快。甚一の中にある狂気と覚醒。敗戦前に意識されているこのような一見あいまいでいい加減な両義的な精神の在り方こそ、大政翼賛体制下の全体主義が強いる明瞭なる一義的社会の崩壊を内から準備していたのである。
5月24日の空襲で3月に引っ越したばかりの三田綱町1番地の新居を焼け出された久保田万太郎は、一句詠んでそうした精神の質に達している。さすがだ。
 何 も か も あ つ け ら か ん と 西 日 中
(p.132)

後悔するほどのことだけがやってみるに値することに違いないのに、いまでは後悔しそうなことは敬遠してしまう先験主義が幅を利かせている。医学の進歩こそが病人を救うことなのだ、と信じてきた現代医学が到達したのは、機械装置によってただ肉体が生存していることが救うことである、という植物人間であった。医者は患者や家族から、いかに生きるかと等価であるいかに死ぬかという選択を奪い去って、患者を管理される囚われ人にしてしまった。繰り返し何度でも言わねばならない。
病を治すために必要なのは、医学の進歩より、医者なのだ、と。(p.228)

谷町は、明治期、下谷万年町、芝新綱と並ぶ「三大貧窟」であった四谷鮫ヶ橋の中心地区であり、明治31年に書かれた横山源之助の『日本の下層社会』によれば、本所、深川、浅草の細民以下の「都会発達に伴う病的現象たる貧民部落」がこの三大貧窟であり、戸数の上で鮫ヶ橋は各貧窟第1位で5千人、千数百戸がひしめいていた。(…)明治末に万年町の貧民窟が日暮里、三河島へ追い払われたごとく、この鮫ヶ橋も中野など市外へ追放された。(p.266-267)

現在渋谷区役所・公会堂があるところは、戦前陸軍刑務所があったところで、2・26事件の香田・安藤大尉以下19名がここで処刑されている。渋谷は憲兵隊、練兵場があったばかりでなく、大隊兵舎を駒場、目黒、世田谷にひかえ、区のド真中に明治神宮を持つ軍神一体の地であった。(p.288-289)

渋谷は現在でも中華料理・台湾料理店とパチンコ屋の多い所だが、それらは台湾租界の影なのである。(p.292)

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