さて、少し長くなるが、佐々木『ニッポンの思想』について。批評史としての流れに関しては、ほぼ異存無し。若い読者のためのいい紹介になっている。佐々木は孤独を装うことを美徳にしている気味があるが、インタビューなどを読んでいても、人の心に寄り添うのが非常にうまいと思う。
えー、もう一つ、重要だと思われるポイントを。
上の日記で、俺は意識的に「ゼロ年代」と「2000年代」という書き方を併用したのだが、それは「ゼロ年代」という呼称への距離感があるからだ。この呼称が出てきたのは、せいぜい2000年代半ばではなかったか(調べてないのであくまで印象論でしかないが)。それまでの表記はまさに「2000年代」、あるいはサブカルチャー界隈(?)では「00年代」と書いて「ゼロゼロ年代」と読むことのほうが多かったように思う。
実際、「ゼロゼロ年代」と「ゼロ年代」とのあいだにある断絶は大きい。この断絶は「サブカル」と「オタク」の断絶と言い換えても通じる性質のものだ。
例えば、後者(オタク)の自意識から出現した宇野常寛が、前者(サブカル……の自意識を持っているかどうかは不明だが)の代表的存在である中原昌也や柳下毅一郎に対して敵意を剝き出しにしていることに、それは象徴される(ああ、どうでもいい例えだ……)。
あるいは、『ユリイカ』2005年増刊号にて「オタクvsサブカル」というそのまんまな特集があったが、その編者の一人であるばるぼらが、「サブカル(=ゼロゼロ年代)」的なネタを「オタク(=ゼロ年代)」的メンタリティでもって更新する、若手批評家としては圧倒的に特異な仕事を始めていることも、この流れのうちにあると言える(例えば『NYLON100%──80年代渋谷ポップ・カルチャーの源流』アスペクト、を見よ)。
と、ここまで書いてハッとしたのだが、そういえば『スタジオボイス』の最終号が「どこよりも早いゼロ年代特集」というふれこみだったはず……と思って確認してみたところ、さすが! 意識的なのか無意識的なのか、メインテーマは「どこよりも早いゼロ年代ソウカツ!」とオタクの時流に合わせ(軍門に下り?)つつ、サブテーマは「追憶の00s」とサブカルの矜持を保つ表記を遺しているではないか!
やはり、ここ10年のあいだで起こったサブカルとオタクとの仁義なき戦い、あるいは「サブカルからオタクへ」というサブカルチャーの重心移動が、この「ゼロゼロ年代からゼロ年代へ」という表記に深く刻まれていると言わねばなるまい。
……と、ここまでは前書き。
さて、そこで俺が言いたいことは、
(1) こういうことのほうが「テン年代」なんてことより重要な問題なんじゃないの?
(2) 佐々木敦という人は自他ともに認めるゼロゼロ年代の代表的人物じゃなかったっけ?
という、まあ、それ自体はくだらないお話なのだった。
ただ、「ゼロ(ゼロ)問題」は、上に書いた『ニッポンの思想』の歴史観への違和にも関わる問題だと思われるので、この項に追記しておくことにします。「オタク」と「サブカル」のあいだには、「絶対安全」ではない、深くて暗い河がある……。
で、あくまでコンスタティヴに書かれた『ニッポンの思想』では、自身の態度は棚に置かれていたわけだが、自身の立場は新著で解明されることになるのだろうか……。
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