2009/07/16

この執拗な犬ども

12時起床。疲れがドッと出て、眠ってしまった。
わかめご飯、お豆腐のお味噌汁、山椒昆布でブランチ。ガールフレンドと一緒に家を出る。
出社後は、地道に入力作業など。途中、休憩がてら『現代思想 特集=ミッシェル・フーコー』(2009年6月、青土社)の中の佐々木中論文「この執拗な犬ども」を読む。むちゃくちゃ面白い。やはりディオゲネス、Always Bestだよねー。これについてのまじめな話は後述。
定時に退社。表参道の美容室に寄って、髪を切る。さっぱり。Incapacitantsの10枚組ボックス『Box is Stupid』をついに入手する。スーパーに寄って帰宅。
夕食は一人で。わかめごはん、山椒昆布、納豆、もずく酢、トロすき身。エチゴビール2本飲んでダラダラ。

で、佐々木中「この執拗な犬ども」。
ソクラテスから二つの流れが湧出したのだ。おそらくは「形而上学」と「文体論」のそれぞれの別の配分の様式であっただろう二つの流れ、プラトン主義とキュニコス派という二つの流れが。プラトン主義は、この世界の背後あるいは上に「真の世界」を前提とする。そこで問題になるのは端的に「この世界とは別の世界」「他界」における「永生」である。しかしキュニコス派において問題になるのは「他界の問題ではない。別の生の問題である」。つまり「この世界における別の生」が問題となるのであり、そしてその別の生こそが彼らにとって真の生なのだ。繰り返し引用しよう、キュニコス派の問いはこうである。「生は、本当に心理の生であるためには、別の生に、ラディカルにまたパラドクサルに別の生にならねばならないのではないのか」。「真の生は別の生である」。プラトン主義におけるように「この世界とは別の世界を」でも「この世界とは別の世界における永遠なる生を」でもない。そうではなく、「この世界における別の生を」「このひとつの世界において別の生を、永遠に」求め続けるということだ。こうした「真の生が他の生の原理となる運動」であるかぎり、「キュニコス派はいずれにせよ西洋における根本的な倫理的経験の母体であり、胚芽を構成する」。真の生を、すなわち別の生を求めるということ。ここに古代哲学から中世の霊性、そして近現代の「運動」をも貫通する「キュニコス的戦闘主義」が存続する。「他の生としての真の生、戦闘の生としての、世界を変えるための」。

「判断」が問題になる。つまり、自己統治の問題がここに関わってくる。
今まで、自分ではそれなりにキュニコス的生を楽しく生きてきたつもりである。だが、病気になって(多少の被害者意識とともに)考えたことは、今の世の中においては、プラトニズムではなく、功利主義的自己統治の跋扈こそが真の敵である、ということだ。これは論文中、「自己への配慮」「生存の美学」を批判する文脈においてたしかに語られてはいるが(「セレブたち」の「ダイエット」、あるいは「管理経営」「マネージメント」「自己啓発」)、この批判は型どおりのものでしかない。現代において本当に恐ろしい存在様態は功利主義であることを、もっと根底的に考える必要がある。自己統治は、今、技術と混じり合うことで、とんでもない代物になりつつあるのだから。
フーコーが「真実を言うこと」の四つの様態を区別する中で挙げていたうちの一つ、「既成のテクネーについて既存の権威において語る、『私を筆頭に誰でも知っていることなんですが教えることに勇気なんて要らないわけですよ』と冗談めかして描写される教師と技術者のそれ」(佐々木論文より)、その後この論文では、この様態をフーコーに準じて「教師」として分類しているが、今現在、この形式がまさに「技術者」の言説として復活してきていることを、肝に銘じようではないか。この、したり顔した気持ち悪さ……社蓄どもよ、今に見ておれ。

0 件のコメント:

コメントを投稿