2009/07/07

『ツール100話』

安家達也『ツール100話』(未知谷)から猛烈に面白かった話の引用。ツール・ド・フランスの歴史とは、機械を操る野蛮な動物どもの歴史である。信じがたい逸話ばかりがここにはある。世界で一番はじめに市民革命が起こった国の人民であるとはどういうことかがこれでわかる。
(1904年)11月30日、フランス自転車連盟は総合順位4位までの選手全員を失格にしたのである。〔…〕彼らの行った不正行為は簡単に言えばコース逸脱である。彼らは詳細な地図を用意し、夜陰に紛れて近道を走り、また列車に乗ったり、暗さを利用して密かに伴走する車に摑まったりした者もいた。〔…〕
これ以外にも、この時代のツール・ド・フランスは怪しげな事件に事欠かない。この年は、まず優勝したコルネもレース中に突然の睡魔に襲われて道路脇の溝に転げ落ちたり、鶏肉を食べて突然気持ちが悪くなったりしている。〔…〕また、彼以外にもマイヨの中に掻痒散をふりかけられ、かゆさのあまり気が狂いそうになった者がいたり、スタート前にブレーキバーが壊されたり、フレームに鋸で切れ込みが入れられたりという事件が頻発した。(p.16)

この年(1905年)のツールもある事件により知名度を高めることになった。いわゆる「鋲まき事件」である。レースディレクターのデグランジュは自転車レースに反対する人々との摩擦を避ける意味もあって、ゴール地点をそれまでの都市中心部から周辺部へ移していた。しかし第1ステージで自転車レースに反対する狂信者が125キロもの靴の鋲をコース上にばらまいたのである。靴の鋲というのは頭の部分が重くできているので、尖った先が上を向きやすい。パンク、転倒に恐れをなした選手達が、ツール史上最初のストライキを起こした。(P.23)

この時代のツールは選手間の実力の差がかなりはっきりしていた。現代のいわゆる科学的トレーニング方法も、エースを勝たせるためのチームプレイのシステムもなかった時代である。〔…〕
また、(ルネ・ポッティエは)グルノーブルからニースまでの345キロの第5ステージではコース半ばにしてすでに後続に1時間のリードを奪い、悠然とコース途中のカフェに入ってワインを一杯注文したという。そして後続が通過していった後に、再び自転車にまたがって、あろうことかこのステージを優勝してしまうのである。
彼がもしその後もツールに参加することができていれば、ひょっとするとツール史上最初の総合優勝2勝目をあげたかもしれない。だが彼はもうツールに参加できなかった。優勝から半年後に彼は首吊り自殺してしまったからである。自殺の理由は妻の不倫だったといわれているが、遺言はなく、はっきりした原因は分からない。遺体の脇にはツールの優勝メダルとリボンが丁寧に並べられていたという。そして彼がロープを掛けたのは、普段自分の自転車を吊り下げておくフックだった。(P.25)

ところが、4488キロに渡るレースの最後、本来ならば彼(フランソワ・ファベール)にとっての戴冠式となるべきはずだったパリへの最終ステージで事件は起きた。この町へ先頭で入ってきたファベールのチェーンが切れてしまったのである。彼は自転車を押して走り始めた。観客は大興奮である。それでも結局6分半の遅れでステージ3位になり、結果から見れば、予期せぬ事態も何のその、彼の総合優勝は揺るぎようもなかった。〔…〕
彼には大食漢としていろいろな逸話が残されている。この年(1909年)のツール期間中にも、カツレツを168枚も平らげたという。単純計算で毎日6枚食べたことになる。しかし2年後にはこの大食ぶりが災いして、休養日のマルセイユで食中毒になりリタイアすることになる。なにしろ、同じくツールに参戦していた義理の弟エルネスト・ポールと2人で16人前のカキを食べたのである。(P.30)

トゥルマレ峠は、今や唯一のライバルとなった同じチームのフィリップ・テイスに18分の大差を付けて通過、(ユジェーヌ・)クリストフの総合優勝が近づいたかに思われた。彼がハンドルの異常に気付いたのはそこからの下りでのことである。止まってみると自転車のフォークが折れていた。この時代は機材の故障は致命的だった。代わりの自転車はなかったし、交換部品すらなかった。もしホイールが壊れれば、自分の力だけで直さなければならなかった。他人の手を借りることが禁じられていた〔…〕。
かくしてクリストフは鍛冶屋を求めて自転車を肩に担ぎ、折れたフォークを右手にもって10キロ離れたピレネーの小村サント=マリー=ド=カンパンへ急いだのである。その村の鍛冶屋に到着すると、彼はすぐにハンマーと金床でフォークの修理をはじめたが、後ろではディレクターのデグランジェと3人の審判が、本当に彼が1人だけで修理するかを監視していた。結局彼はこのステージでトップから3時間50分遅れてゴールした。しかし彼の後ろにはまだ15人の選手がいたのである。デグランジェはクリストフの行為に最大級の讃辞を惜しまなかったが、レース規則45条、2項「修理に際して第三者の手を借りてはならぬ」に違反したとしてペナルティタイムを課した。クリストフがハンマーと金床でフォークを修理している間、鍛冶屋の7歳の少年が彼のためにふいごを操作していたからである。(P.45)

さて、この年(1928年)最強のアルシヨン・チームはすでに第1ステージから他チームを圧倒した。前年の優勝者ニコラス・フランツは第1ステージでマイヨ・ジョーヌを着ると、最後までそれを守り通すのである。〔…〕だが第19ステージ、メッスからシャルルヴィルへの159キロだけは衝撃的だった。フランツの80キロの体重にフレームが耐えきれず、折れてしまったのである。彼はチームメイトを捜したが、周りにはいない。ふと観客の女性用自転車に目が留まる。〔…〕彼はベルと泥よけと女性用の幅の広いサドルのついた小さな自転車にまたがって、まだ100キロも先のゴールに向かった。(P.71)

ロビックのその後は不運続きだった。頭蓋骨、腕、足、鎖骨、両肩とおよそ骨折することのできる骨はすべて折った。〔…〕
「掟破り」のアタックに敗れたブランビラはロビックを恨み続けた。彼は庭に穴を掘ってその時の自転車を「埋葬」したという話まで伝わっている。しかし30年以上もたった1980年、レセプションの席上でロビックとブランビラは和解の握手を交わした。その後のことは、月並みだが運命とは皮肉なものであるとしか言いようがない。その帰り道でロビックは交通事故で命を落とすのである。(P.104)

この年(1950年)の夏は非常に暑く、記録によると日陰でも45度を超える日があったという。この暑さは、この年初めて出場した北アフリカのアルジェリア・チームにとっても堪え難いものだった。このチームのアブ=カル=カデル・ザーフという選手は第13ステージで後続に15分の差をつけて逃げたのだが、途中で暑さに耐えられずカフェのテーブルに置かれていたワインを2本飲んで酔っぱらって道ばたで寝込んでしまった。これでザーフは有名人となり、ツール後の各地で開かれるクリテリウム・レースに引っ張りだこになったそうである。(P.119)

この年(1951年)はもう一つセンセーショナルな事件が起きた。初出場のヴィム・ファン・エストは第12ステージでオランダ人として初めてマイヨ・ジョーヌを着ながら、翌日オービスク峠でコースアウトする。当時の『レキップ』紙の記事では約100メートル、ウッドランドは20メートル、シャニーのツールの歴史では50メートル、最新のオフィシャル本J・オジャンドル篇の『ツール・パノラマ』では75メートルと書かれているが、いずれにせよ彼は崖から転げ落ちたのである。そして小さな出っ張りに背中から着地した。もし少しずれていれば700メートルの崖下に落ちていたと言われている。上からのぞいたチームメイトはマイヨ・ジョーヌを着た彼の姿が、岩壁に咲くキンポウゲの花のように見えたと語っている。(P.124)

しかしエースたちは誰も他の者のために走る気などなかった。互いに牽制しあい、最終的には足を引っ張り合ったのである。(P.142)

彼(フェデリコ・バーモンテス)は6回山岳賞を獲得している。彼を有名にしたのは1954年のコミカルなエピソードである。グルノーブルからブリアンソンヘ向かう216キロの第18ステージ、ツール初出場の彼は信じられないほど軽々と標高1074メートルのロメイエール峠を登ってきて、かなりのリードを奪って頂上に到着した。ここで彼は自転車を降りてアイスクリームの屋台でバニラアイスを1本買うと、そこに坐って美しい景色を見ながら悠然とアイスを舐めはじめたのである。しばらくすると後続集団が来た。そこでおもむろに集団の背後について谷へ下っていった。彼は登りこそ信じられないスピードで走ったが、下りは苦手で、ほとんどびくびくしながら下っていくのだった。伝説ではアマチュア時代に下りでコースアウトしてサボテンの群生につっこんだことが強烈なトラウマになっていたという。彼にとっては一人で下るより、集団の方が安心だし速かったのである。(P.145)

12チーム120人で争われたこのツール(1959年)で、前年に引き続いてフランス・チームはアンクティル、ボベ、ロジェ・リヴィエール、ジェミニアーニとエースを4人も抱えていた。その誰もが他の選手のために走る気などないどころか、例によって他の奴が勝たないなら自分が勝てなくても良いという強烈なライバル意識で潰し合いをしたのである。(P.146)

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