2009/10/06

うどん

体調悪し。お酒を呑むとダメだな。
14時半起床。動くとたまにシャンビリ。昨晩に引き続き、朝食も「宮城と福島の饂飩」。最後の一玉を卵で食す。
会社を休んで安静に過ごす。部屋を片付けたり。
18時から20時半まで昼寝。起きて、スーパーで買い物。ヒガシマルの傑作・うどんスープの素も購入する。いただいた「オーストラリアの小麦で打った饂飩」で、きざみうどんを作る。なるほど「宮城と福島の饂飩」と違い、「オーストラリアの饂飩」はコシが強い。が、俺はコシが強い讃岐うどんよりも、ダシを効かせて麺は柔らかい大阪のうどんのほうが好きで、そういう意味では、ヒガシマルの傑作うどんスープに合うのは、むしろゆるゆるとした「宮城と福島の饂飩」のほうであったのかもしれない。それでも、きざみうどんはおいしくできました。
ガールフレンドの帰宅に合わせて肉を抜いた肉じゃがと、きゅうりと塩こぶの浅漬けを作る。ジョアン・ジルベルト『in Tokyo』を聴きながら。ビール2缶。

2009/10/05

シャンビリ

10時起床。玄米に納豆、お味噌汁の朝食。

丸二日投薬していないので、薬が抜ける時期なのだろう(ちなみにjの血中濃度半減期は24時間)。離脱症状らしきものが現われる。たまにだが、シャリーンと電気が流れるような感覚がからだを通り抜けるのだ。おサイフケータイの効果音のような。そういえば投薬を始めた今年4月頃にも同様の症状があったことを思い出し、インターネットで調べてみると、2ch用語で「シャンビリ」と呼ぶのだそうだ。「シャン」が耳鳴り、「ビリ」が電気ショック様感覚とのことで、なるほど、俺には「シャン」はないが、そんな感じである。しばらく続くのだろうか。観察してみたい。


区役所で印鑑証明登録。出社後は入力作業、新プロジェクトの書類作り。夕刻、渋谷で打ち合わせ。その後、食事に流れ、生ビール5杯ほど飲む。

22時前に帰宅。しばらくしてガールフレンドも帰宅。小腹が空いていたので、ガールフレンドの知人からいただいた「宮城県と福島県の小麦粉で打った饂飩」をゆでて、わかめとともに食す。美味なり。


2009/10/04

今日は哲っちゃん誕生日

9時45分起床。ガールフレンドを見送って、昨日のカレーを食す。
中川昭一死亡のニュースは、すごく嫌な感触がした。毒殺か、それとも吐瀉物による窒息か……。いずれにせよ、親子2代が巻き込まれるとは、政治って怖い。
『花より男子』10巻まで読む。えーと、主人公のつくしちゃんの優柔不断さって、どちらかといえば問題ありまくりな気がするんだけど……。この世界観、ジョージ秋山先生あたりに道明寺の目線からリライトしてもらったら、いわゆる人間の醜い部分があますところなく描かれたとんでもない傑作になる気がする。
図書館へ。帰宅後、レスリー・ゴーアのベスト盤を聴く。あんまり素晴らしいんで、いま何やっているんだろうと調べたら、2005年にレズビアンであることを告白したんだそうである。
17時から18時半まで昼寝。その後、借りてきた『久保田万太郎全集 1』(中央公論社)を読み始める。
夜、父と弟とスカイプ会議をしながら料理。玄米、しめじのお味噌汁、豚肉とズッキーニ、ピーマンの甘辛炒め、宮城から届いた枝豆。ビール4杯。父にレスリー・ゴーア「It's My Party」を送ったらたいそう喜んでおり、亀渕昭信がオールナイトニッポンで「♪今日は哲っちゃん誕生日〜」という替え歌を歌っていたことを教えてくれた。
その後、ガールフレンドといろいろと話す。「コンセプトは使い回せるが質感は使い回せない」「質感は、細かい箇所の積み重ねで現われる」など。

2009/10/03

舌の前衛

10時半起床。今日も喉が痛い。風邪気味。ガールフレンドを見送って、洗濯物を乾燥機にかけて、漢方を服用してから、ブランチ。白米に鮭、さつまいものお味噌汁。食後、『ファストフードが世界を食いつくす』の続きを読んでいるうちにウトウトし、結局13時から16時まで昼寝。まだ眠気はとれない。
起きて図書館へ。帰宅後、ニール・ヤング『Live at Massey Hall 1971』を聴く。最高すぎる!
夕食は、無印良品のグリーン・カレー。たっぷりのにんにく、しょうが、たまねぎを1時間ほど弱火で炒めて下ごしらえし、鶏もも肉、たけのこもじっくり炒め、ハーブ&スパイス多種、少々の鶏ガラスープ、ココナツミルクを加えて煮込む。さらに宮城から届いた無農薬の春菊、しめじを入れて完成。同じく宮城から届いた無農薬の水菜をみょうが、かぼすと一緒に浅く漬けたもの、半熟のゆでたまごを添えて。ガールフレンドが帰宅するまで待って、一緒に食べる。おいしい! 風邪も治りそう。ビール2杯。食後に梨を剝いて、図書館から借りてきた神尾葉子『花より男子』(集英社)を読み始める。

他に、図書館から借りてきた『料理通信』にあった興味深い記事。
〔料理学会なるものが開かれ〕今回の総合テーマは「食の未来」、そして実際のテーマというべきサブタイトルは「科学と料理」である。このテーマがいわば必然のものとして選ばれたのには、去年からスペインの料理界のみならず一般の人々にまでも波及して大きな関心事となっている「コシナ・モレクラール(分子料理)論争」が根底にある。
論争のきっかけは2008年5月。スペインで三ツ星シェフの一人として知られるカタルーニャのサンティ・サンタマリアが自著の出版に際して、「前衛的な高級レストランのシェフの中には、食用に適さない凝固剤や乳化剤を多用している人がいる」と、事実上名指しでフェラン・アドリアと彼に続く前衛料理のシェフたちを批判したのである。
この批判は根拠のないものであること、彼らの使用する添加物とその量に問題はないことがスペイン保健省からもスペイン食品安全保障団体からも発表されたが、様々な報道機関によって「前衛料理vs.伝統料理」と銘打った論争が展開され、定義も定かでないままに「分子料理」という命名が安易に、しかも批判的な響きを伴って使われるという事態を招いた。
(渡辺万里「進化する料理学会『マドリッド・フュージョン』」、『料理通信』2009年4月号、p.58、角川春樹事務所)
ほー、こんな論争がされていたなんて。
まあ「伝統料理」と呼ばれる料理も当時の最先端技術の粋だったと考えれば、エル・ブリ(エル・ブジ)が切り開いた道だってその延長で捉えることは可能だろう。実際、エスプーマはもはやそんなに珍しいものではない。ただ、たしかに気になるのは「添加物とその量」の問題で、これはアガルアガルやアルギン酸、シャンタナなど、とろみをつけたりする添加物のことを指しているのだろうが、こういったほぼ純然たる化学薬品を堂々と料理に使うことに抵抗があるのは、なんか理解できる(ったって、もちろん俺はエル・ブリなんて行ったことないですけどね)。
いずれにせよ、この場合の本質的なテーマは「科学と料理」ではなく「技術と料理」なのではないか。ここで技術とは、伝統的に受け継がれてきた人の技も含まれる。で、この技術こそが科学されなければならないのだ。エスプーマは、ムースを作る技術がいったん科学的に抽象化されることで、別の技術として結晶したのだと言える。とすれば、日本料理の技術──それは食材の扱い方一つとってみても、理にかなっているとよく言われるが──えてして「職人技、経験と勘、知恵」などと表現され、非科学的に伝承されてきた日本料理の技術をこそ、一度科学してみると面白いはずなのだが。
俺は、「舌だけは保守的にできている」などとわざわざ言うやつが嫌いで(本当にいるんだ、これが。最近だと姜尚中がどこかでそんな発言をしていたが、「舌だけ」じゃねーだろって)、舌にこそ前衛が必要とされているとつねづね考えている。なぜそう思うのかは、自分でもよくわからないのだが。この際、科学でなくても、スカムでもいいので(笑)、ぜひ、どなたかチャレンジしてほしいものです。

2009/10/02

抗鬱剤、卒業か

8時起床。ガールフレンドが作ってくれた鮭粥を食べる。
病院へ。定期診断。眠さが抜けない旨を院長先生に訴えたところ、「治ってきていると、薬の副作用のほうが効きすぎちゃって、逆に眠くなることがあるんだよね」とのことで、突然だが抗鬱剤を飲まなくていいことになる。やった! 「え? ホントにいいんですか?」って感じ。漢方だけで2週間ほど様子を見ることに。投薬からちょうど半年間。いやー、嬉しいな。
昼食は駅で買った総菜パン。ベーコンエピ、ツナワサビフランス。エリック・シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』(楡井浩一訳、草思社)を読みながら電車でもぐもぐ。会社では入力作業のほか、表参道で打ち合わせなど。定時に退社。『週刊文春』を読みながら帰宅。今週号は面白くなかった。
1人なので、夕食はオリジン弁当の竜田揚げ弁当で済ます。ダニー・ハサウェイ『Live』を聴きながら。2時間ほど眠る。
ガールフレンドが帰宅するというので、さつまいものお味噌汁だけ作っておく。

2009/10/01

選民思想をくすぐる

夜中におなかを下す。水みたいな下痢が3度ほど。食あたりか?
11時半起床。あー、調子悪い……。漢方を飲んだあと、玄米と納豆、めだまやきで軽いブランチとする。

ベッドで横になりながら、マルコム・グラッドウェル『天才!──成功する人々の法則』(勝間和代訳、講談社)を読む。内容は、タイトルと訳者から想像される自己啓発的なものとは違い、統計調査によってこれまで常識とされてきた事柄を引っくり返す結果(本書では、天才が生まれる条件)を導くというもの。ひとことで言えば、天才とは、才能の所産ではなく、機会によって生まれる必然性である、みたいな。で、この手法はたしかに説得的で、読む分には面白い。ただし、その論旨は(統計学という手法上、当然ながら)つねに後出しジャンケン的な結果論であるという物足りなさも残る。「子供の成績は親の育ちでほとんど決まる」と述べるスティーヴン・レヴィット『ヤバい経済学』と似ていて、「勝ち組」の選民思想を心地よくくすぐる内容とも言える(この点、黙ってりゃいいのに「私は(…)本書でグラッドウェルが指摘するような『好機』に恵まれ続けてきたのは確かだと思う」とわざわざ書いちゃう勝間和代のあとがきに顕著)。

気づいたら昼寝、18時半まで。で、その後もダラダラ。毎日こんなんで、ホンマあきまへんなー。
ガールフレンドが帰宅後、鮭粥を作ってくれる。おいしい。

マルコム・グラッドウェル『天才!──成功する人々の法則』

マルコム・グラッドウェル『天才!──成功する人々の法則』(勝間和代訳、講談社)
成功とは、社会学者が好んで呼ぶ「累積するアドバンテージ」の結果である。プロのアイスホッケー選手は最初、同じ年齢の仲間よりほんのちょっとだけホッケーが上手だった。そして小さな差が好機を招き、その差が少し広がる。さらに、その有利な立場が次の好機を招く。こうして、最初の小さな差がますます大きくなり、延々と広がって、少年は本物のアウトライアーになる。だが、この少年はもともとアウトライアーだったわけではない。ほんのちょっとホッケーがうまかっただけだ。p.37

ここで注目すべきなのは、エリクソンが“生まれつきの天才”を見つけられなかったことだ。仲間が黙々と練習に励む、その何分の一かの時間で、楽々とトップの座を楽しむような音楽家はいなかった。その反対に、他の誰よりも練習するが、トップランクに入る力がないタイプである“ガリ勉屋”も見つからなかった。調査は、一流の音楽学校に入る実力を持つ学生がトップになれるかなれないかを分けるのは、「熱心に努力するか」どうかによることを示していた。彼らを分けるのは、ただそれだけ。さらに重要なことに、頂点に立つ人物は他の人より少しか、ときどき熱心に取り組んできたのではない。圧倒的にたくさんの努力を重ねている。
複雑な仕事をうまくこなすためには最低限の練習量が必要だという考えは、専門家の調査に繰り返し現れる。それどころか専門家たちは、世界に通用する人間に共通する“魔法の数字(マジック・ナンバー)”があるという意見で一致している。つまり一万時間である。p.46

あなたがどこで育ち、あなたの両親がどこで育ったかだけでなく、あなたの曾祖父母や高祖父母、さらにはそれ以前の世代が育った場所にまで遡る必要がある。その事実は、意外な形で表れ、あなた自身の人生や考え方に強い影響を及ぼしている。
だが、それは始まりに過ぎない。なぜなら、詳しく調べれば調べるほど、そのような“文化という名の遺産”はますます奇妙で、さらに強い影響を及ぼすものだからだ。p.192

ホフステッドは有名な自著『Culture's Consequences(文化の影響)』で書いている。
“権力格差の小さい国”では権力者は権力の行使を恥ずかしく思い、控えめに演じようとするものだ。私はかつて、あるスウェーデン人(権力格差が小さい)の大学職員が、権力を行使するために、自分には権力がないように見せかける、と話すのを聞いたことがある。指導者は公的な象徴を放棄することによって、非公式な地位を高めるのかもしれない。オーストリア(権力格差が小さい)のブルーノ・クライスキー首相は、たまに市街電車で出勤することで有名だ。1974年、私はオランダ(権力格差が小さい)のデンオイル首相が、ポルトガルのキャンプ場で自分のキャンピングハウスで休暇を取っている姿を見かけた。権力者のそのような姿は、権力格差の大きなベルギーやフランスではとてもお目にかかれないだろう。p.233

以下は灼熱の太陽のもと、湿気の高い中国の水田で、1年に3000時間働く貧しい農民が昔から互いに交わし合ってきた至言である。(…)
もっとも印象的なのはこれだ。
「1年360日、夜明け前に起きた者で、家族を豊かにできなかった者はいない」
p.269

私たちは往々にして、「数学が得意なこと」を生まれつきの才能だとみなす。“その能力”があるかないか。だがショーンフェルドにとって、数学は能力ではなく態度である。試みることを厭わなければ、数学が得意になる。ショーンフェルドはまさに、そのことを学生に教えようとしている。成功とは、粘り強さ、辛抱強さ、勤勉を厭わない意思の結果であり、それらがあれば、たいていの人が30秒で投げ出すことに22分もかけて取り組める。p.279