2009/09/11

エターナル・サンシャイン

11時起床。バナナプロテイン。今日はビタミン剤を飲まず。ガールフレンドと『やっぱり猫が好き』を観てから出社。上司に体調を心配される。うーむ、自分も心配であります。

昼食は近所の蕎麦屋で親子丼。その後、公園でダニエル・ファーソン『フランシス・ベイコン──肉塊の孤独』(高島平吾訳、リブロポート)を読む。何たる邦題だろうか。話自体も散漫な印象。やはりベーコンの評伝は新潮社のが決定版か。そのまま公園で1時間ほど昼寝。それにしても、日の沈むのが早くなったなー。

夕食はひさびさに2人で。あさりとしらす、大葉のパスタ、お味噌汁。『やっぱり猫が好き』を観ながら。食後、ミシェル・ゴンドリー『エターナル・サンシャイン』を観る。いいねー! その後は読書。


終日うっすらと頭痛。ビタミン剤の類が必要であることが、これで判明。

2009/09/10

『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタヴュー』

デイヴィッド・シルヴェスター『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタヴュー』(訳=小林等、筑摩書房)
1962
FB いつも屠殺場や肉の写真に心を動かされます。そして、私にとってはキリストの磔刑も同じカテゴリーに入るのです。動物が屠殺される直前にとったすさまじい写真があって、死のにおいがします。もちろん本当のところはわからないけれども、その写真を見ていると、動物はこれから自分がどうなるのか気づいているみたいで、必死で逃げようとしているように思えます。こういう写真があの絵〔《磔刑図》〕のベースになっているのでしょう。「磔刑図」にとても近いものがある気がするのです。敬虔なクリスチャンにとっては、「磔刑図」がまったく違う意味をもっていることは知っています。でも私は無神論者ですから、これは人間の行動の一つにすぎません。他人に対する行為のひとつです。p.28

FB 思うに、ベラスケスは当時の宮廷や人々を記録していると自分で信じていました。ところが現代の優秀な画家は、同じような状況に置かれた場合には、ゲームをするしかないのです。記録するにはフィルムを使えばいいとわかっているので、その仕事はほかのものにまかせればいい、ということになります。画家がやるべきことは、イメージを通して完成を解放することだけです。それに、現代人は自分がたまたま存在しているだけのつまらないものだと気づいているのではないでしょうか。だから無意味なゲームを最後までやらなくてはならないということも、わかっているのです。ベラスケスやレンブラントがどんな人生観をもっていたにせよ、絵を制作する態度は彼らなりに、宗教が提示する何らかの可能性にまだ若干なりとも影響されていたと思います。ところが現代人は宗教的な意味での可能性を完全に捨て去ってしまいました。今では、自分の行動によって自分を欺いて、しばらくの間だけごく前向きな気分になろうとするのがせいぜいです。たとえば、医者から命を買うようにして長生きするとか。あらゆる芸術が今では気晴らしのためのゲームです。いつだってそうだったと言われるかもしれませんが、今では完全にゲームなのです。こんなふうに状況は変化してきました。画家にとってますます困難な状況になってきているわけですが、これは素晴らしいことです。画家が画家たりうるためには、ゲームを本当に深化させることができなければならない時代になったのです。p.34

1966
FB (…)私が絵に描くということは相手を傷つけることになるので、好きなモデルの前では描きたくありません。そういうことは人目のないところでやりたいのです。そのほうがモデルの真の姿をより明確に記録できると思います。
DS 傷つけるとは、どういう意味ですか。
FB 世間では、少なくとも純朴な人は、歪めて描かれると傷つけられたと感じます。画家に対してどれほど思いやりをもっていようと、画家をどれほど気に入っていようと、そう感じるのです。
DS そういう人たちの直観が正しいとは思わないのですか。
FB たぶん、正しいのでしょう。それは充分わかっています。しかし、現代人で姿かたちを歪めることなく真の姿が伝わるように記録できた人がいるでしょうか。p.46

FB 絵を描く際には、偶然ないし幸運は最も重要な側面で、想像力の源になっていると思います。いい絵が描けても、自分で描いたのではなく、たまたま自分が授かることができたという感じがするのです。しかし、何年間も、偶然と偶然を利用する可能性とについて考えてきましたが、どこまでが純粋に偶然のおかげで、どこからがチャンスを生かす能力にかかっているのか、本当は全然わかりません。p.61

FB (…)抽象表現主義で行われたことはすべてレンブラントがやっています。しかし、レンブラントの絵は非合理なだけでなく、事実を記録しようとする試みでもあったので、なおさら私にとって刺激的で深みがあるのです。私が抽象画を好きになれない、あるいは興味をもてない理由のひとつは、絵画はこのようにふたつの側面をもつものなのに、抽象画は審美的な要素しかもっていないからです。いつもひとつのレベルにとどまっていて、パターンや形態の美しさにしか目を向けないのです。ほとんどの人々、とりわけ画家の内面には、どろどろした感情の領域が大きく広がっているのですが、抽象画家は一面的な絵でそうした感情をすべて表現できると信じているのでしょう。しかし、私が思うには、そのような表現は弱すぎて何も伝えられないのです。偉大な芸術は整然としていると思います。その秩序の中にきわめて直感的で偶発的なものがあっても、それも秩序を求め事実をより強烈に神経組織に伝えたいという欲望から生じているのです。すでに偉大な画家が存在したのに、どうして人は新たに何かを作ろうとするのでしょう。その理由はただ、偉大な画家の業績によって、世代ごとに直観が変化しているからです。そして直観が変われば、作品をより明確に、より正確に、より強烈に作りなおす方法についての感じ方が新しくなります。芸術は記録であり、何かを伝えるものだと思います。抽象画には伝えるものがなく、あるのは画家の美意識と乏しい感性だけです。抽象画には緊張感がまったくないのです。p.65

1971/73
FB (…)先日、人と話していて、こんなことを言いました。「自分が田舎屋にひとりで住んでいて、一生何も経験しなかったとしましょう。それでもまったく同じ人間になるでしょうか、それとももっとましな人間になるでしょうか」。私はそうは思いません。でも、ときどきそんなことを考えてしまうのです。p.84

DS (…)あなたの絵が、対象の姿かたち以外に何と関わっているのか、話してもらえませんか。
FB 私の心理状態です。それは、ユーモアのある言い方をすれば、うきうきする絶望とでもいう気分です。p.93

FB (…)私にとって現代絵画の神秘とは、姿かたちをどのように描くことができるかということです。もちろん、写実的に描くこともできるし、写真にとることもできます。でも、絵の制作という神秘的な過程で、姿かたちにひそんでいる神秘をとらえるにはどうしたらいいのでしょう。それには、非論理的な制作方法を用いるのです。非論理的な方法で論理的な結果をもたらそうと試みるのです。つまり、非論理的な方法でにわかに作品を生み出すことができて、しかもその作品が完全にリアルで、肖像画だったらモデルが誰だかわかるのが望ましいのです。
DS こう言い換えてもいいでしょうか。あなたは姿かたちに関する常識的な見方にできるだけ左右されないで、その姿かたちの絵を描こうとしている。
FB とてもうまく言い表してくれました。p.120

FB (…)私は伝統的な技法を使っているのかもしれないし、そう見えるかもしれませんが、その使い方を従来とはがらりと変えたり、本来とは大きく異なる目的で使ったりしたいですね。いわゆるアヴァン=ギャルドに関わった人のほとんどは、新しい手法を編み出したいと考えましたが、私はそうは思いません。私はアヴァン=ギャルドとは無縁なのでしょう。きわめて特殊化した手法を作りだす必要性をまったく感じないのです。技法を革新しようとしながら、その枠にあまりとらわれなかった唯一の人物はデュシャンです。彼はとてもうまくやりました。一方、私はいわゆる受け継がれてきた技法を用いているのでしょうが、その技法で過去に制作されてきた作品とは根本的に違うものを作ろうとしています。p.122

1974
DS 昔、あなたはたいしてお金を持っていないのに惜しげもなく使っていましたが、お金に困るということはなかったのですか。それとも、必ず救いの神が現れたのですか。
FB 策を講じてなんとか凌ぐということが、よくありました。どんなときでもどうにかやっていく才能があるのでしょうね。盗みとかそういうことをしても、良心の呵責をまったく感じないのですよ。きわめて自己中心的なんでしょうね。捕まって刑務所に入れられるのは嫌だという気持ちはありましたが、盗み自体は何とも思っていませんでした。p.140

1984
FB できるだけ自由に人生を過ごしたいし、最高の制作環境が欲しいだけです。ですから、政治に関しては、左翼に比べて理想主義的な面が少ない保守派に投票してきました。左翼は理想主義を振りかざして市民の生活に干渉してきますけど、保守派は放任しておいてくれますからね。保守派が無難だといつも思っています。p.216

感覚の鬼

10時起床。玄米、納豆、お味噌汁。ビタミン剤、三半規管の薬など。デイヴィッド・シルヴェスター『肉への慈悲 フランシス・ベイコン・インタヴュー』(筑摩書房)を読みながら出社。

昼食はひさびさにお弁当を近所の公園で。『肉への慈悲』読了。秋晴れ。

夕方、アタマが電池切れしたので早めに帰宅。家に着いたとたん睡魔が襲ってきて、気づくと20時半まで寝ていた。なんか最近、脳が危ない気がするのだが、大丈夫だろうか。ホント具合悪いな。

レンタルビデオ屋に返却と貸出に行ってから夕食。一人なのでつましく。玄米、納豆、お豆腐としめじのお味噌汁。借りてきた『やっぱり猫が好き』を観ながら。面白いなー。当時小学生だった俺は、小林聡美ってのはいいなーと思っていたのだが、いま観ると室井滋の凶暴さにほれぼれ。ホントかっこいい。室井滋、当時30歳。いまの俺より年下かあ。ガールフレンドと一緒に観たいと思い、1話分だけ観て止める。

それはさておき、細馬宏通がアレクサンダー・テクニークを体験したときのブログが素晴らしい。まさに感覚の鬼。この一文に、いくつもの発見が潜んでいる。

頭蓋骨の位置を調節してもらうと、自分のデフォルトの位置とちょっと違って、頭蓋骨をやや引き気味かつ上気味に、そして目線を落とす感じに。これだと、視界がやや高めかつ広めになる。景色がかわる感じ。声が出しやすくなる。

2009/09/09

良性発作性頭位目眩症

10時起床。すごい目眩。こんなのはじめて。水平方向は何ともないのだが、垂直方向に頭を動かすとグラグラと揺れる。歩くのが怖い。とりあえずバナナ豆乳プロテインだけ流し込んで、近所の耳鼻科へ。
診断の結果は、良性発作性頭位目眩症。内耳にある耳石という部位がどうかするらしい。ストレスか睡眠不足でしょうとのことで、薬をもらって帰宅。
玄米とお味噌汁、目玉焼き、もずく酢の昼食後、さっそく薬を服用。インターネットで調べるとエプリー法という体操(?)も効くらしい。それにしても、こんなふうに頭がおかしくなるのは嫌だなあ。ホント怖い。ま、メニエールでなかっただけよかった。
大事を取って今日も会社を休むことにして、14時から18時半まで昼寝。

夕食は一人なので簡単なもので済ます。玄米、じゃがいもとたまねぎのお味噌汁、鶏肉としめじの白ワイン蒸し、もずく酢。週刊文春を読みながら。

エプリー法

2009/09/08

レイドバック・ガットギター

10時起床。昨日よりは楽な感じ。朝食は梨。コーヒーを飲むのが辛く、一口で済ます。少々吐き気も。バナナプロテイン、ビタミン剤、漢方などを服用。手慰みに見た小林聡美のホームページの、謎の充実っぷりに驚く。

午後はお仕事。地味に企画を1本仕上げる。

昼食はコンビニのお惣菜パン。昨日と同じ、ツナマヨとコロッケを。

ビタミン剤の類、やはり効いている気がする。少なくとも、金曜日のひどい状態に比べて、半日をうまく切り抜けられるようになっている。しかも、いい感じに感覚がレイドバックしつつある。こんな感じに低空飛行を続けていきたい。目指せ鳥人間。

帰りしな、ガットギター欲しさに、新宿の石橋楽器に寄る。じろじろ眺める。セコハンでいいから欲しいなー。


夕食は玄米、お豆腐とわかめのお味噌汁、かぼちゃサラダ、枝豆、ニラたま、タコのマリネ。全部ガールフレンドが作ってくれました。ニラたまがマジうまい。おみやげでいただいた道後温泉の地ビール2本。ヱビスの黒1本。ウェス・アンダーソン『ダージリン急行』を観る。

2009/09/07

ミシェル・アルシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』

ミシェル・アルシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』(五十嵐賢一訳、三元社)
MA でも、あなたは少なくとも一度は彼〔アンディ・ウォーホル〕と同じテーマで絵を描いています。つまり、あなたもミック・ジャガーの肖像を描きました。
FB ああ、でもそれは一種の頼まれ仕事だったんだよ。その肖像を描くように誰かに頼まれたけど、でも僕はジャガーとは知り合いでも何でもないし、それに、その絵を描いている時はウォーホルのことなど考えもしなかった。ほんとうにこれっぽっちもね!
いや、だからさ、たとえ彼がポップ・アーチストの中で一番頭の切れる人間だとしてもだよ、頭では決して芸術はできないんだよ、決して絵は描けないんだよ……残念ながらね。
MA 何が絵を描かせるんですか?
FB さあ何かね。p.47

MA 前回の質問に戻りますと、何が絵を描かせるのか分からないということでしたが、でも、絵を描かせるのは何なんですか?
FB 要は、絵かきなら見るものを本能で描くことができるか、あるいはほとんどまったくといっていいほどできないかということなんだ。この点はいつもなおざりにされていると僕は思う。でも、要はこれなんだ。つまり、本能的に何かを描くことができるということなんだ。この本能というものを説明するとなると、これはまたたとえようもなくややこしい問題だ。絵画というものが世紀から世紀へといかに大きく変化するかという事実を見ると、本能というものもまた、世紀から世紀へと移り変わるたびに変化するのではないか、見たり聞いたりするあらゆるものによって変化を蒙るのではないのかと思えるんだ。どうだろう。ともかく、僕に言えるのは、本能というものは大変重要なものだということだ。p.57

MA それでは、あなたにとっては、異なった芸術表現形式間の接近には興味がないということですか?
FB そのとおり、あまり興味がないな。でも、ほら、そう思うのはこの僕なんで、要するに方法はどうでもいいんで、重要なのはひとえに何かができるということなんだ。それ以外のことはどうでもいいんだ。もし自分にとって意味のあることが生きている間にできれば、それをどうやるかとか、どの分野でやるかとか、そんなことはどうでもいいんだ。自分の人生に意味を与えること自体が既にたいへんまれなことになってしまっているし、それができたら最高なんだよ。p.84

MA 一般的に言って、現在の政治的状況についてはどう思いますか?
FB 知ってのとおり、僕は1909年の生まれだ。それ以来、世界中で何ダースもの戦争とか紛争があった。生まれてすぐのアイルランドのいろいろな出来事とか第一次世界大戦を皮切りにね。僕の世代の人間は戦争抜きの人生なぞ想像できないのではなかろうか。言うもおぞましいことだけど、でもそれが誰もがした経験だと思う。僕らにとっては常に戦争というものがあっtんだ。それに、現在のいろんな出来事……。今日どこが違うかといえば、それはたぶん情報手段だね。ラジオとかテレビとか新聞とかで、どうなっているのか逐一明らかになるし、世界中のあらゆることが耳に入る。それで人間が賢くなるとか、批判的精神がさらに高まるとは思えない。そうなりたいところだろうけど、そうは問屋が卸さない。ともかく、世界中で起こっていることに見ざる聞かざるでいることは至難のわざだろうな。p.111

銀座

9時にいったん起床し、仕事に出かけるガールフレンドを見送る。俺は調子が悪いので再度寝て、12時に起床。ビタミン剤など健脳物を服用。漢方は飲み忘れる。頭痛薬は敢えて飲まず。ミシェル・アルシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』(五十嵐賢一訳、三元社)を読みながら出社。

午後は粛々とお仕事。先々週に済ませるはずだったものをようやく仕上げる。

夕方、ガールフレンドと待ち合わせて、銀座松屋にて赤塚不二夫展の最終日。残念ながらぎりぎり間に合わず、オリジナルグッズのみ買い漁る。

夕食は、玄米、じゃがいもとたまねぎのお味噌汁、かぼちゃといんげんのサラダ、鶏肉、なす、トマト、ピーマンの炒めもの(ケチャップとオイスターソース)。ヱビスの黒3本。荻上直子『めがね』を観ながら。