2011/08/10

また日記再開

また日記を再開したい、できれば──と、唐突に思った。まあ、俺の人生はいつもこんな感じの思いつきで成り立っていて、断続的に15年くらい日記があったりなかったりするわけで、もう、基本的な性格だからしようがないのだろうな、こういったことは。
3月11日から1ヶ月間くらいのあいだに自分に起こったことはノートに手書きで記してあるので(その間──そしていまもだが──「電力」を信じることができないでいる)、それはいつか転記することにしたいけれど、ひとつだけ、ずっとずっと思いをめぐらしながらも叶わないことがあるので、まずはそのことを。それはつまり、震災の前日、3月10日の記憶を甦らせるということだ。この日、ぼくはあまりにも普通な過ごし方をしたのだろうか、手帳、メール、Twitter、Facebookなどの履歴を見ても、いったい何をしていたのか、どんな音楽を聴いて誰の本を読んだのか、何の痕跡もなく、記憶からすっぽり抜け落ちてしまっているのだった。
唐突に思われるかもしれないが、最近興味深く読んだのは「宮尾すすむが何年か前に死亡したというニュースを見た記憶があるのだが、今年の7月21日に亡くなったという報道を見て驚いた」というよくわからない情報から、今回の震災で量子力学的なパラレルワールドが分離だか統合だかしたとかいう話に発展していった2ちゃんねるのスレで、読みながらむちゃくちゃ笑ったのだが、自分にとっての3月10日は「宮尾すすむの二度死」とは真逆の意味でパラレルワールド的な断絶がある、という考えに至り、急に気持ちが悪くなった。震災によってだかなんだか知らないが、宮尾すすむが二回も死んだとされる世界に生きている人たちと同じように、俺はこれまで自分が生きていた世界とはまったく違うところに接続された感覚が襲ってきたのだった。
少なくとも、俺にはもう、それ以前の生活を構成する力も、技術もないだろう。それは、「サンイチイチ以後」(個人的にはこういう言い方をするセンスを疑ってます)に人間が変わった、とかいう話ではなく、単純に、その直前の日を思い出せないということから来る実感なのだ。日記をつけておけばよかった、と後悔するのは、こういうときだ。

まあ、それはそれとして、3月11日からの俺の生活は異常だとこれまで考えてきたのだけれど、このブログを読み返してみると、じつは今のほうが健康的で(昨年の3月11日に日記を「再開」してるのだが、このときはまだクスリ漬けだった・笑)、そういうことに安心しました。
震災以後の自分の生活がどのように変わり、あるいはどのように自分から生活を変えていったか、ということは新しい生活について書くことで明らかになると思う。

とりあえず、今日は、震災後新たに契約した高知の農家から有機野菜が届き、それをガールフレンドとサラダにして食べ、仕事をしたあと、白ワインを飲みながら突発的にこの日記を書くことにしたのだった。

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