2010/11/18

ご説ごもっとも、では別の話題に

思うところあり、別のところで半年ほど付けてから1年ほど中断していた日記を再開することにした。

とりあえずの準備として、ブログの開設や、ブログ用のメモとして使用するTwitterの開設(ブログ専用に別アカウントを取得)などに夜の時間を費やす。チャッチャと登録できるのではと多寡をくくっていたが、存外に時間がかかるものだった。ついでにFacebookにも登録してみるが、こちらは何に使えばいいのかがまったくわからない。別に、誰かとコミュニケーションを取りたいわけではなく、むしろ積極的にひきこもりたい気分であるため、とりあえず放置することに決める。

日記を再開するからといって精神的な余裕があるわけではなく、むしろ、一向に進まない仕事が頭の中を占めており、一週間ほど悶々とした状態が続いている。(1) クライアントに提出する企画書の仕上げ (2) 文章の校正 (3) 会社に提出する新規プロジェクトの提案 が、日々の雑務に追われて一つも動かないのであった。

と、ブログ開設の準備中、デザイナー2人からほぼ同時にデータが送られてきた。1時間かけて2人に返事を出す。風呂に入る前にガールフレンドに電話。缶ビールを1本空ける。電話を切ったあと、あまりの深夜に入浴気分をなくしたため、そそくさとベッドに潜り込む。ふと、月曜日に予定している重要人物との打ち合わせの準備にも着手しなければならないことに気づき、焦燥感でいっぱいになったりも。初日から、こんな日記でいいのだろうか……なんだか情けない。

昨日まで初期の柄谷行人を集中的に読んでいたのだが、今晩はドゥルーズを読むことにする──正確にはジル・ドゥルーズとクレール・パルネの『対話』(江川隆男と増田靖彦による新訳、河出書房新社)。かつて『ドゥルーズの思想』というタイトル、田村毅訳で大修館書店から刊行されていたこの本を、学生時分に古本屋で入手し(すでに書店にはなかった)、ぼくは何度も繰りかえし読んだ。江川の新訳版解説には「別の思考の仕方で書かれたもの」であり理解に時間がかかったとあるが、江川より20年以上若く、読書経験も浅かったぼくにはドゥルーズの著作では本書が一番スッと染み入った感触があったと記憶している(あるいは『哲学とは何か』と双璧か)。
今回、パラパラと読みかえしたが(というか、新訳ははじめて読んだ)、冒頭から感動的な記述とともに、学生の頃の記憶がよみがえってきたのだった。
目的は諸々の問いに答えることではなく、抜け出すこと、そうした問いから抜け出すことである。多くの人々は、問いを何度も蒸し返すことによってしか、その問いから抜け出すことができないと考えている。(…)そういう仕方では決して抜け出せないのだ。問いから抜け出す運動はつねに考える人の背後で、あるいはその人のまばたきする瞬間になされている。抜け出すこと、それはすでになされているのであって、もしそうでなければ決してなされることはないだろう。(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』7ページ )

さて、唐突なようだが、ぼくがこの日記に刻みたいことは、いったい何か。それは「時代」と途切れた時間を確保したい、という一点に尽きる。この本でドゥルーズが指摘する「諸々の問いに答えることではなく、抜け出すこと」は、「繋がりの社会性」(北田暁大)にまみれた、あるいは、自分を修飾するためのわざとらしい言辞で溢れたこの世界から、ひとときでも降りるためのヒントになるように思う。
この場合、世界から降りる、とはいったい何を意味するのか。それは、端的に言えば身のまわりをオフラインにするということである。他人のことなど放っておけ、ましてや自分をや──。この世界で連鎖する(あるいは、連鎖しているように見えている)何かから、少しだけでも距離を置きたいのだ。
なぜそんなことを思うか、それは正直に言うと、ぼくがそういったものと距離をとるのが、年々下手になっているからだと思う。

学生の頃のぼくは、『ドゥルーズの思想』の次のフレーズを読んで「これはぼくが考えていることと同じだ」と思った。しかし30代を迎えたぼくは、こんな「簡単な」ことも言えずに、つまらぬ関係性の中で日々を過ごしているのだった。
反省は、一人、二人、あるいは数人では不十分だ。とりわけ反省がない。反論に至ってはさらにひどい。反論されるたびに私は「ご説ごもっとも、では別の話題に」と言いたくなる。反論が何かをもたらしたことなどまったくなかった(ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』5ページ)

0 件のコメント:

コメントを投稿